一七九八年にイギリスの医師ジェンナーが発表し世界にひろがった牛痘種痘。この本は、ジェンナーの発見がどのようにヨーロッパから日本へ伝わり、普及したのか海外からの視点で検証した本で、著者はアメリカの学者で主に日本の近世史を研究しています。4000円と高価ですが、図書館だと無料で読めます。
天然痘は,天然痘ウイルスにより引き起こされる感染症で、伝染力が強く致死率が高い(定期的な暴露のある地域で致死率25%)ことから人々に恐れられていました。また生き残った人も、あばたが残ってしまったり、視力を失ったりする可能性が高かったのです。
一度天然痘にかかった人は二度とかからないようだということは古くから知られていました。そこで、中国では天然痘の患者のかさぶたを乾燥させたものを鼻の穴に吹き込んだほか、トルコ式と言われる方法では天然痘の膿(漿)を皮膚に着けた引っかき傷の下に接種する「人痘」と呼ばれる方法が行われていました。ヨーロッパではトルコ式が主流となっていましたが、危険をともなうものでした。
一方、牛の病とされた「牛痘」は18世紀のイギリスにおいて、かなりありふれた病気でした。乳搾りの女性や牛を扱う人には誰でも感染することがありましたが、人に出る症状は軽く、回復した後も天然痘に感染しません。ならばあらかじめ人に牛痘をうえて、天然痘を防ぐことができるはず。この発想から牛痘種痘を考えだし、それに「牛」をあらわすワッキーナエという学名をつけました。これがワクチンの語源となっています。
ですが、問題もありました。
痘苗を活かしたまま遠方まで運ぶことが難しかったのです。初期には未感染の子どもを次々牛痘に感染させて牛痘を運ぶ、人体リレーすら行われていました。この子どもたちは、困難な船旅を強要できる孤児たちが多く選ばれました。いまでは人道的に考えられないことですが。
植民地争いなどで対立していたヨーロッパの交戦国同士においてすら、種痘を伝播させるためのネットワークをつくりあげました。10年ほどで中国の広東まで伝わって行ったそうです。
この最新技術の日本への導入は、ヨーロッパ諸国とは対照的に50年という長い年月を要しました。生きた状態の痘苗の搬送が難しかったことに加え、種痘を広げるためのインフラやネットワークができていなかったからです。ですが不幸中の幸いか、良いこともありました。蘭和辞典の編纂が実現したのです。
この辞書は「ドゥーフ・ハルマ辞書」「長崎ハルマ」として知られています。大変貴重品だったそうで、司馬遼太郎の小説「花神」にも「ズーフ部屋」なるものが登場しています。
1823年シーボルトが長崎にやってきます。彼は日本人に多くの医学的知識を与え、医家ネットワークの構築に決定的な役割を果たしました。
そして種痘の準備万端となった日本で、1849年、佐賀藩の蘭方医、楢林宗建の息子に日本で初めて牛痘種痘が成功します。それから佐賀藩主、鍋島直正の嫡子に牛痘接種が行われました。これによって牛痘にお墨付きが与えられたのです。鍋島直正すごいですね。理解と確信がないとできないことです。
種痘は日本全国へ瞬く間に広がり、1858年、幕府は江戸お玉が池に種痘所の設立を認めます。種痘医たちは、簡単な説明をつけたり、錦絵風にしたりといった工夫を凝らした引き札を版行し、民衆の啓蒙に努めました。
なぜ牛痘によるワクチン療法が画期的だったのか、天然痘はどれほど恐ろしい病気だったのか等々、驚くことが多かったです。日本においてもオランダ商館の人、日本人医家、大名など様々な人が立場を超えて天然痘に立ち向かうネットワークを作っていく様が、人は違いを超えて結びつくこともできると教えてくれます。
また、馬場佐十郎のような通詞や翻訳家の貢献も少なからずありました。現代でもそうですが、医師薬の翻訳は専門的です。苦労はいかばかりだったでしょうか。この本自体も多くの言語の資料を駆使しており、日本語に訳すのも大変だっただろうと推察されます。翻訳ってすばらしい。
この本にはジェンナーやドゥーフ、シーボルト、緒形洪庵、手塚良庵など名前を知っている人がちょいちょい出てきました。今度は『陽だまりの樹』を読んでみようと思っています。
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