読書の友は珈琲とチョコレート

本屋さんか図書館まわりで生きています。文学館にいることもあります。

大河ドラマ「青天を衝け」をより楽しむための本

 『青天を衝け』

 ドラマの台本をもとに小説化したものです。
大河ドラマ「青天を衝け」には原作はなく、脚本家によるオリジナルストーリーです。
脚本家の大森美香さんは、テレビ局勤務を経て、脚本家になりました。「不機嫌なジーン」やNHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』の脚本を執筆しています。

  


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 渋沢栄一は2024年に新一万円札の顔になります。鉄道や銀行などの日本の根幹となる約500社もの企業を立ち上げ、600以上の社会事業にかかわり、ノーベル平和賞の候補にも二回なりました。「日本資本主義の父」「実業界の父」。渋沢栄一の生まれは天保11年2月13日(西暦:1840年3月16日)、武蔵国・現在の埼玉県深谷市血洗島の藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれました。ここで栄一は 家業を手伝います。

深谷は土地の性質が稲作に向かず、コメの代わりに藍を育てていました。江戸時代、藍は染料として広く使われており、重要な作物でした。


『日本の藍』

 藍の栽培、藍染料の作り方、染織の技法、そして藍染作家たちを紹介している本です。この本によると、藍の産地としては徳島県の阿波が最も盛んでした。
ドラマ内で「阿波の藍だけでなく武州の藍も良いからぜひ見てくれ」と栄一とお父さんが売り込んでいるシーンがありました。 

  栄一は藍づくりの仕事にも精を出していました。14歳のとき、父の代わりに近くの村々へ藍の買い付けに出かけ,藍葉の鑑定を一人で行いました。渋沢栄一は、藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて宴会をしました。競争意識を高めるためです。上位の人には、栽培の工夫などを話してもらって、今後の改善を皆が行えるよう工夫していたそうです。

 

栄一は藍を加工して現金に換金することを通して経済感覚を育てていったのかもしれません。ちなみに栄一は幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)から「論語」などを学んでいます。


 栄一が16歳の時、栄一のいた藩は血洗島村に御用金1500両を要求、渋沢栄一の生家「中の家」に500両を割り当てました。ちなみに、2000両以上を生家は負担させられていたそうです。父の名代として岡部陣屋に出頭した栄一は代官に対し、一旦もちかえって改めて回答すると伝えました。しかし、代官は渋沢を罵倒しこの場での受諾を強要しました。栄一が世の中を変えようと思ったきっかけとなりました。

 

『雨夜譚』

 


 この雨夜譚は渋沢栄一の自伝です。御用金の一件での栄一の悔しい気持ちや、恩人の平岡円四郎が暗殺されてしまいますが、この前後の事情なども書かれています。

 この御用金でのもやもやをきっかけに社会を変えることを決断した栄一は、攘夷の志士をめざします。彼は横浜の外国人居留地を焼き討ちする攘夷計画を企てました。しかし、京の情勢に通じた従兄の長七郎の猛反対にあい、断念。逆に幕府に追われる立場となり、いとこの喜作と共に京へ逃げます。ふたりの助けになったのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎でした。

 

大河ドラマ関連の本をもう一冊。

 

5 NHK大河ドラマガイド『青天を衝け』

 

 
ドラマのガイド本前後編です。
NHKは栄一たちが暮らす血洗島でのシーンを撮影するために、群馬県安中市に広大なオープンセットを建設しました。藍の畑などもいれて東京ドーム1個分あるそうです。そのセットの撮影の様子や、「こんばんは、徳川家康です」と突然入ってくる北大路欣也さんの解説パートの余話など読むことができます。

徳川慶喜との関連本を一冊。

 

 

 『徳川慶喜渋沢栄一』 

 


渋沢栄一は「生涯の主君」徳川慶喜の伝記編纂に大きな労力をかたむけています。ふたりの人生を追いかけることで、明治維新後の徳川家の姿を描き出している本です。 

そして徳川慶喜に使えた渋沢栄一におとずれた次のターニングポイントはパリ行きでした。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのです。慶喜の弟・昭武とパリに渡った栄一は、社会のいろいろなことがらに衝撃を受けました。

  

渋沢栄一滞仏日記(「航西日記」「巴里御在館日記」)

「航西日記」という栄一の旅日記。栄一がが初めて目にしたものや食べたもの、海外で渋沢がさまざまな社会のしくみを見て学んだものなどが詳細に記録され、当時の感動が伝わってくるようでとっても面白いです。


凡そ毎朝七時ごろ、乗客の旅客盥漱(かんそう)の済みしころ、ターブルにて茶を呑ましむ。茶中必ず雪糖を和し、パン菓子を出す。又豚の塩漬けなどを出す。ブールと云う牛の乳の凝まりたるをパンへ塗りて食せしむ。味甚だ美なり。(ここドラマで出ました)


この航西日記などは国立国会図書館デジタルライブラリーで見ることができます。

dl.ndl.go.jp

 

 

そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。 栄一29歳、帰国したら幕府はなくなっているわ、江戸は東京になっているわ、しかも旧幕府軍と新政府が内戦状態となっており、未来は見通せませんでした。
フランスから帰国後、慶喜がいる静岡に身を寄せた栄一でしたが、大隈重信にスカウトされます。そして大蔵省への仕官を命じられて上京。渋沢が大蔵省に勤務しているころ、将来を嘱望されていました。しかし33 歳の時に思うところがあって大蔵省を辞めます。

  やめようとする渋沢を、同僚の玉野世履(たまのせいり/たまのよふみ)は責めました。いずれ大臣にだってなれるのに、金に目がくらんで実業家になるとはあきれるばかりだ、と。そのとき、渋沢が『論語』を用いて「官僚だけが尊いわけではないし、金銭を卑しんでいたら国家は立ち行かない。人間が務めるべき尊い仕事は至る所にある」と反論しています。

 

『近代日本の礎築いた七人の男たち』
玉野世履は岩国の人です。玉乃 世履(たまの よふみ/せいり)
日本の裁判官。 清廉潔白な精神の持ち主で、その公正な裁きにより、「明治の大岡」と賞賛されました。

 

 

 

 

 

この後、実業界でどのような会社を立ち上げてきたかは、冒頭でお話してきたとおりです。ここで一冊ビジネス書をご紹介します。

 


9『マネジメント』 上 P.F.ドラッカー∥著

 

 

エッセンシャル版には含まれていませんのでご注意を・・・
この本の著者、P・F・ドラッカーオーストリアの経営思想家です。本書は組織経営とはなにかを説いた本であり、ビジネス書の定番です。最近では、「マネジメント」に感化された女子高生が高校野球部をマネジメントする本が流行したのが記憶に新しいかたもいらっしゃるかもしれません。この『マネジメント』の中に渋沢栄一について書かれた箇所があります。


日本では、官界から実業界へ転身した渋沢栄一が1870年台から80年代にかけて、企業と国益、企業と道徳について問題を提起した。のみならず、マネジメント教育に力を入れた。プロフェッショナルとしてのマネジメントの必要性を世界で最初に理解したのが渋沢だった。明治期の日本の経済的な躍進は、渋沢の経営思想と行動力によるところが大きかった。


10『論語と算盤』
栄一が76歳の時、喜寿を機に実業界を引退。「論語と算盤」を刊行します。

論語と算盤」そのものの本としていま一般的に流通しているのは角川ソフィア文庫版とちくま新書版で、ちくま新書のほうはわかりやすく抄訳してあります。

 

 

 

 

 

変わったとこところでは漫画版もあるのですが、この漫画版では、渋沢栄一が部屋に入ると山形有朋の幽霊が出てくる、といった演出があって驚きました。

 

 

 

論語とは道徳、ソロバンとは経済。一見すると相反する二つの言葉を「と」という女子でつないで、両立させた、一見矛盾したタイトルです。
ところで、『論語と算盤』は厳密には渋沢栄一の著作ではなく、渋沢の講演会の記録を再構成した講演抄です。

1 処世と信条
2 立志と学問
3 常識と習慣
4 仁義と富貴
5 理想と迷信
6 人格と修養
7 算盤と権利
8 実業と士道
9 教育と情誼
10 成敗と運命

 

第一章 処世と信条より

論語と算盤という信条は渋沢自身が考えたものではありません。このフレーズの生みの親は漢学者、三島毅(き)でした。

 

その画調の中には『論語』の本とソロバン、一方はシルクハットと大証の朱色に塗った刀のサヤが描いてあった。ある日、学者の三島毅先生が、わたしの自宅にいらっしゃって、その絵を見られると、こう言われた。「とても面白い。わたしは『論語』を読む方で、おまえはソロバンを探求している方がそのソロバンを持つ人が『論語』のような本を立派に語る以上は、自分もまた『論語』だけで済ませず、ソロバンのほうも大いにきわめなければならない。だから、おまえとともに『論語』とソロバンをなるべくくっつけるように努めよう」

 実業家となった渋沢は、実業を行うだけでなく、さまざま公益を追求し続けました。
渋沢は自らが事業にかかわる際には、それが公益に資する事業かどうかどうかを基準として決めていたことが、論語と算盤に記されています。

栄一が力を入れていた社会事業のひとつは東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)です。渋沢栄一の生きていた時代、東京には数多くの生活困窮者がいました。栄一は1874年(明治7年)から、貧しい人、病気の人、老人や障害のある人、孤児などの保護施設の運営を始めました。できるだけその人たちが社会に参画できるよう、職業訓練や教育も併せて実施していました。子の養育院の運営にはは60年近く養育院の運営にかかわりました。

 『五重塔』で知られる幸田露伴渋沢栄一伝から・・・

 

11『渋沢栄一伝』幸田露伴

 

  

これほど慈善事業に栄一の熱心であったのは、栄一の仁心にもとづいたことは勿論であるが、その源泉を尋ぬると、栄一の母の性質の美にして、惻隠の情はなはだ深く、困窮病弱等の悲しむべき人を憫む(あわれむ)余りにその救済慰籍の施為(しい)が篤きにすぎて、時にその夫の喜ばざるまでに及んだ程だったというのに因ったのである。母は明治7年に死したが、栄一はその後数十年を慈善事業に尽力して怠らなかったのである。母は栄一によって永く生きたのである。
栄一は昭和6年11月11日92歳をもって時代の人として意義ある生活を終わった。

 

渋沢栄一デジタルミュージアム

www.city.fukaya.saitama.jp