『恩讐の彼方に』
大分県中津市の耶馬渓(やばけい)で、江戸時代の僧禅海が、自らノミと槌で30年をかけ彫りぬいた洞門が「青の洞門」です。
耶馬渓には「鎖渡し」という難所があって、命を落とす民衆が後を絶ちませんでした。これを見かねて禅海が托鉢で資金を集め、石工を雇い、執念で洞門を完成させました。この逸話をもとにして書かれたのが『恩讐の彼方に』です。
右図の写真の銅像の後ろが切り立った崖になっています。こんな岩場が多い地形で、当然現代のような舗装された道路もなく、通行が困難だっただろうことは想像に難くないのでした・・・
青空文庫で公開されています。短編なのでスマホでも読みやすいです(^_-)-☆
『恩讐の彼方に』 菊池 寛/著
あらすじ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 主殺し
安永三年(1774)、江戸の旗本の家で殺人事件が起こります。屋敷の奉公人、市九郎が旗本である主人といさかいの末、主殺しの大罪を犯してしまったのです。いさかいの原因は主人の妾、お弓とねんごろになってしまったことでした。この当時は手打ちにされても仕方がない重罪です。市九郎とお弓が密会していた現場に、突然主人が踏み込んできて、応戦しているうちに主人を殺すという最悪の結果を招いてしまいます。
妾のお弓の「こうなっちゃ、一刻の猶予もしておられないから、在金をさらって逃げるとしよう」という言葉に従って、二人はその場から逃げるのでした。屋敷には三歳になったばかりの実之助が眠っていました。
2 市九郎、強盗家業を働いた後、懺悔して出家する
市九郎は「どうせ兇状もちになったからには、度胸を据えて、世の中を面白おかしくくらそうじゃないか」とお弓にけしかけられ、追いはぎを働くようになりました。
三年がたち追いはぎも板についたころ、若夫婦が市九郎たち二人の餌食になってしまいます。市九郎は、この夫婦を殺した時に芽生えた良心の呵責と、お弓の強欲さに嫌気がさし、身一つで逃げ去りました。
そして、美濃(岐阜県)の浄願寺に駆け込み、寺の上人に一切の罪を打ち明けます。市九郎は出家し、名も了海と改めました。
3 贖罪として隧道(すいどう)開通を一大悲願とする
出家後に諸国を修行しながらたどり着いたのが、豊前国(大分)の樋田という宿場でした。そこで「鎖渡し」という難所で命を落とした馬子といきあいます。
この鎖渡しでは年に10人もの人命を奪ったという恐ろしい場所であることを聞き、実際に鎖渡しを目にしたとき、約360メートルに余る岸壁をくりぬいて道を通す事業を起こすことを決心します。
4 里人が何度か手伝うが長続きしせず挫折。しかし18年たち開通のめどがたつ頃、本腰を入れて支援する
はじめのうちは、騙りじゃといって非難していた里人たちでしたが、二年たち三年たつうちに、迫害をやめて協力するようになります。しかしその困難さからあきらめてしまうこともありました。
市九郎は村人の協力がなくなった後もひとり岸壁を掘り続けます。やがて20年近くが経過し隧道の開通を信じて疑わなくなった里人たちは、積極的に掘削を手伝うようになっていったのです。
6 了海(市九郎)を敵とする実之助が登場
隧道の開通を目前にしたある日、市九郎のために非業の横死をとげた旗本の息子、実之助が現れます。実之助は敵討ちのため、長い間市九郎をさがして諸国をさすらっていたのでした。
やがて実之助の前に現れた市九郎の姿は、人間というよりも、むしろ人間の残骸というべきものになっていました。実之助の張りつめた心は、この老僧を見てタジタジとなってしまいます。彼は、心の底から憎悪を感じるような悪僧を思い描いていたのに、目の前にいるのは半死の老僧だったからです。
7 実之助が敵討ちを止められる
タジタジとなった実九郎ですが、敵を討とうとする実九郎の前に、五六人の石工が挺身して走り出てきます。石工の棟梁に隧道の開通という大願成就の日まで仇討を待つよう哀願され、実之助はこれを受け入れます。
8 実之助が洞門内で了海の菩薩心を感受する
石工たちの哀願を受けれはしたものの、五日目になると監視の目も緩んできます。今宵こそと仇討を心に決めた実之助が洞窟に忍び入ると、洞窟の底からクワックワッと間をおいて響いて来る音を耳にします。それは了海が深夜ただひとり暗中に端座して鉄槌をふるう音だったのです。
その一心不乱な音と、しわがれた悲壮な声で経文を誦する声、衆生を救るために砕身の苦しみを嘗めている了海。それに比して深夜の闇に乗じて、おいはぎのように、憎悪のために権をふるおうとしている自分を顧みると、実之助は戦慄が体を伝うのを感じました。
9 隧道の開通
実之助は、老僧を闇討ちにするようなことはせず、一生の悲願達成の日まで待つことを決心します。そして呆然とその日を待つよりも、自分も槌をふるうことによってその日が早まることを悟り、了海と相並んで槌をふるうようになりました。
二人が並んでのみをふるうこと1年半ついに洞門は貫通します。二人はすべてを忘れ手を取りあって涙にむせんだのでした。
作者の菊池寛は
自分の歴史小説などは、すべて封建的な義理人情の打破であり、啓蒙であったと思う(『続半自叙伝』)
と述べています。仇討と、作品の発端となる姦通事件が封建的なものの象徴でしょうか。
封建的なものへの批判という点もさることながら、実之助が市九郎(了海)を赦す心持になるまでの過程がとても興味深かったです。
憎々しい悪僧のはずだったはずの了海が、贖罪のため砕身し人間の残骸のような姿になっており、タジタジとなる(赦す相手の姿をとらえなおす必要に迫られる)
↓
敵討ちを待つことをいったん了承したものの、武士として不甲斐ないと洞窟に忍び込み、岸壁を穿つ姿に心を打たれる。
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敵である了海と並んで槌をふるう(共感から赦しの気持ちへ)
実之助は親を殺されており、それを赦すことが困難なのは想像するまでもありません。そこに加えて封建社会ですから、武士としてのメンツや、家名再興の必要性もあります。10年に近い月日を艱難のうちに費やしたらなおのことです。
実之助の赦しの過程をひとつひとつ重ねて読み解いていくことで、「了海スゲー」で終わらない話として読むことができるように思います。