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第150回直木賞(2013後半) 『恋歌』 朝井まかて あらすじ

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第150回直木賞(2013) 『恋歌』 朝井まかて著 あらすじ(ネタばれあり!注意

幕末の江戸。主人公の中島歌子は実在の人物で「たけくらべ」で有名な樋口一葉に和歌を教えたことで知られる。

 

  中島登世(歌子の昔の名前)は江戸の宿屋、池田屋の娘として生まれる。池田屋は水戸の御定宿の指定を受け、繁盛を極めていた。

 

名のある商家の娘として暮らしていた登世は、ある日林忠左衛門以徳という剣士と出会う。怒りっぽい、理屈っぽい、荒っぽいの”三ぽい”と陰口をたたかれる水戸者のなかで、静かで美しいその剣士は登世に淡い恋心を抱かせた。ある事件が元で登世と林は再開する。登世は自分の恋心をはっきりと意識し、数多く持ち込まれる縁談も気が進まない。登世の母は、そんな登世の気持ちも知った上でたくさんの縁談を持ち込んでいたのだった。

 

そんなある日、桜田門外の変が起きる。林はけがをしており襲撃に参加できなかった。再び会うことができた二人は結婚を決める。

 

 登世は水戸へ嫁いだ。尊皇攘夷がお家芸の水戸藩も一枚岩ではなく、天狗党と諸生党が対立し、一触即発の状態だった。攘夷を実行に移すべく天狗党の一員、藤田小四郎(藤田東湖の四男)が中心になって天狗党の乱がおきる。天狗党の一党が弾圧される中で、歌子は夫と引き離され、自らと義妹も投獄され、過酷な運命にさらされる。

 

 牢から出ることができた登世と義妹てつは、危険を覚悟で水戸を出奔する。身一つで水戸を出た二人は登世の母を頼り、名前を変えて江戸に居を構える。

歌人としての修行を開始し、十年ほど経過するころには歌壇に認められ、家塾を開き、名前も「う多」と変えた。 ある日、出奔したう多(登世)と義妹てつを案じて、天狗党の仲間がう多を訪ねてくる。生死のわからなかった登世の夫、林以徳は戦病死していた。

 

 老境を迎え、歌は病の床に就いた。う多には妙な心がかりがあった。若いころから使えてくれた使用人の澄と、天狗党を弾圧した首謀者である市川三左衛門の娘のことである。後年天狗党は名誉を回復し、諸生党に血を血で洗うような復讐を行っていた。首魁である市川三左衛門は捕えられ、妻子まで処刑されていたが、一人だけ娘の行方がわからなくなっていた。もしかして、同一人物ではないだろうか。う多はその遺言状で、天狗党と諸生党の復讐の連鎖にけじめをつける。

 

 

 

 





中島歌子 (なかじまうたこ) はこんな女性

1841年12月14日~1903年1月30日


 明治期の歌人。幼名とせ。江戸日本橋北鞘町に生まれる。中島又左衛門の二女。文久元年(1861)一八歳で水戸藩士林忠右衛門と結婚。忠右衛門は天狗党に加わり、武田耕雲斎、藤田小四郎らとともに決起し、元治元年(1864)下野国部田野原で戦病死した。歌子は水戸反対党に捕えられ獄に投ぜられたが、悠々と落ち着いて獄舎生活を送り、放免語歌人加藤千浪に師事した。明治初期、歌道が衰退した時期にその挽回をはかり、東京小石川安藤坂に家塾萩の舎を開き、和歌、古典、書道を伝授した。教えを受けたものは1,000余に及んだ。三宅花圃、樋口一葉もその門下である。六十三歳で死没。

 (『日本女性人名事典』、日本図書センター

 



天狗党の乱とは(1864年3月)

 早くから尊王攘夷を主張していた水戸藩。その一部が天狗党であった。攘夷を約束しながらも煮え切らない態度に業を煮やした天狗党の藤田小四郎ら約60人が中心となって1864年3月27日常陸国茨城県筑波山で挙兵。
 水戸藩主の徳川慶篤は、過激な行動を起こさないよう小四郎らを説得するが失敗。参加者は増え続けるが、軍資金の調達に失敗し、天狗党の一部が街に放火するという事件が起きる。この件で天狗党の評判がさがり、天狗党を暴徒として水戸藩の幹部は討伐軍を結成する。


 藤田小四郎や、やむなく天狗党に合流した武田耕雲斎は京都の一橋慶喜をたよることにしたが、天狗党討伐軍の大将が当の慶喜だと知り、加賀藩に降伏した。小四郎や耕雲斎は幕府の命令により斬首。
しかし、処罰を免れた天狗党の一部は長州藩の助けを借りて尊王攘夷の活動を続け、幕府に味方する水戸藩幹部に反発。この内部対立が藩全体の力を弱め、結果的に水戸藩は倒幕に乗り遅れてしまう。

(『幕末・維新人物大百科』、ポプラ社より)

 

 

 

 

 

 

感想




 幕末の水戸藩を描いた作品を読む機会がなかったため、新たな視点からこの動乱の時代を見ることができました。

天狗党の乱と同じ年1864年、6月には池田屋事件があり、7月には禁門の変久坂玄瑞が自害、12月には高杉晋作が功山寺で挙兵、翌1865年5月には坂本龍馬亀山社中を結成しています。猛烈な勢いで変化していく当時の情勢の中、水戸藩は藩内の対立から抜けられませんでした。内向きな空気が支配する中、藤田小四郎のように若く何かをしなければという気持ちに駆られている青年が、桂小五郎たちのような人たちに出会ってしまったら、それは影響を受けざるを得ないでしょう。 

 天狗党の乱が起こり、登世は激しい流れに浮かぶ1枚の木の葉のように運命を翻弄されますが、ただ泣いたり恨んだりすることに終始せず、和歌の世界にとびこんで生き抜きます。

作中を通してたびたびあらわれる歌

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」
(川瀬の流れが速いので 岩にせき止められた滝川が分かれても行く末でまた合流するように、今はやむにやまれずお別れすることになりますが、再び出会って必ず一緒になりましょう)

 せつないことに、二人は一緒になれませんでした。若くして亡くなってしまった夫と、時間が流れて一人だけ置いてしまった自分。ほとんど一緒にいることもできなかった二人をつなぐのが「背をはやみ~」の一句だったのであれば、小説に移って行ってしまった樋口一葉と関係が薄くなってしまったのもなんとなくわかるような気がします。年を経てもかすむことのない恋情を抱き続けていた彼女にとって歌は文字通り命をかけて詠むものであったでしょうから。

 天狗党の弾圧から名誉回復の後、逆の立場になった天狗党と諸生党の人には血で血を洗う復讐が行われます。天狗党の志士の妻女として投獄されたう多(登世)の元にも諸生党の首魁の娘がおり、この負の連鎖のような憎しみはどんどん続いていくのかと思いきや、う多の決断が小気味よかったです。ふたつの立場とふたつの家がひとつになることで、悲しい方向にしか向いていなかった流れのようなものの方向が少しでも変わってくれたらと思わずにはいられませんでした。面白く読了。